「がん対策推進企業アクション」と教育訓練給付制度は、一見すると、医療と労働という異なる文脈にあるこれら二つの制度ですが、現代の日本企業が直面する深刻な人手不足と従業員の高齢化という課題を前に、その親和性は極めて高まっています。
ここでは、企業が従業員のがん検診受診を促し、罹患後の両立支援を行い、さらには教育訓練給付制度を活用したリスキリング(学び直し)を通じて、どのように人的資本の価値を維持・向上させていくべきか、その具体的な戦略と展望について考察します。
1.日本企業が直面する「健康」と「キャリア」の不可分性
「2人に1人ががんになる時代」の経営リスク
現代の日本企業において、従業員の健康リスクはもはや人事部門だけの課題ではなく、経営の根幹を揺るがす重大なリスクへと変貌しています。国立がん研究センターの統計によれば、生涯でがんに罹患する確率は男性で65.5%、女性で51.2%。「2人に1人ががんになる」という事実は、企業にとって、熟練した働き手が突然の病に直面する事態が日常的に起こり得ることを意味しています。
医療の進歩と「がん離職」という社会的損失
かつて、がんは不治の病として恐れられ、診断は「即、退職」を意味しました。
しかし現在、医療技術の飛躍的な進歩により、がんは「長く付き合いながら働く病気」へと変化しています。それにもかかわらず、診断直後の動揺や職場への遠慮から、十分な検討をしないまま自ら職を辞してしまう「がん離職」は年間約6万人にものぼります。これは、企業にとって貴重な人材とノウハウの喪失という、甚大な損失です。
リスキリングによる「第2のキャリアパス」の創出
最近のデジタル変革(DX)の波は、従来の職務スキルを急速に陳腐化させています。病気による身体的制約が生じた際、これまでの業務を継続できなくなるリスクもあります。ここで重要になるのが、厚生労働省の「がん対策推進企業アクション」による健康管理と、教育訓練給付制度によるスキルアップ支援の統合です。これらを組み合わせることで、従業員の命を守りつつ、新たな職能を身につけて貢献し続ける「キャリア・ウェルビーイング」の実現が可能となります。
2.がん対策推進企業アクションの概要
プロジェクトの目的と背景
「がん対策推進企業アクション」は、2009年(平成21年)にスタートした厚生労働省の委託事業です。このプロジェクトは、2007年に施行された「がん対策基本法」に基づき、厚生労働省の委託事業として発足しました。当時、欧米諸国に比べて日本のがん検診受診率が著しく低かった(30%程度)ことを受け、国民の多くが平日の大半を過ごす職場を拠点に検診を促そうという戦略から誕生したものです。
がん対策推進企業アクション(厚生労働省・がん対策推進企業アクション事務局)
https://www.gankenshin50.mhlw.go.jp/
企業が主体となって、がん検診受診率の向上とがんと仕事の両立支援を推進し、日本全体の健康リテラシーを高めることを目的としています。企業がこのアクションに参加し、推進パートナーとして登録することは、単なる社会貢献(CSR)ではなく、直接的な経営戦略としての側面を持ちます。
早期発見の経済的価値
企業が従業員に対し、がん検診の受診を強く推奨し、受診しやすい環境(費用補助や勤務時間内受診の容認など)を整えることには、明確な経済的メリットがあります。
- 生存率の劇的な向上:例えば、大腸がんや胃がんは、早期(ステージI)で発見されれば5年相対生存率は90%を超えます。早期発見は、従業員の命を守る最も確実な方法です。
- 治療コストと期間の圧縮:早期であれば、手術も低侵襲で済み、入院期間も短縮されます。化学療法(抗がん剤治療)が必要ないケースも多く、従業員は短期間で、かつ体力を維持した状態で職場に復帰できます。
- 代替要員コストの回避:熟練した従業員が長期休職や退職に追い込まれた場合、その補充にかかる採用コストや、新たな人材を育成するための教育コストは、検診費用の比ではありません。
受診率60%という目標の意義
本プロジェクトでは、がん検診受診率60%以上を目標に掲げています。これは、集団検診の有効性が統計的に証明される水準であり、職域全体で受診を当たり前の文化にすることで、「自分だけは大丈夫」という正常性バイアスを打ち破る効果があります。
3.治療と仕事の両立支援
がんと診断された従業員が、離職することなく治療を続けながら働き続けるためには、柔軟な制度設計が不可欠です。
「がん離職」を防ぐための初期対応
従業員が「がんです」と告白した際、上司や人事が最初にかける言葉が、その後のキャリアを決定づけます。「無理しなくていいよ」「まずは治療に専念して(=休んで)」という善意の言葉が、時に従業員に、もう以前のようには期待されていないという疎外感を与え、離職を後押ししてしまうことがあります。
企業アクションを通じて正しい知識を身につけた組織であれば、治療をしながらどう働きたいか、一緒に考えようという前向きな姿勢を示すことができます。
柔軟な勤務制度の導入
両立支援の核心は、治療のステージ(手術、放射線、化学療法など)に合わせた柔軟な働き方の提供にあります。
- 時間単位の有給休暇:週に一度の通院や、副作用が出やすい時間帯の休暇に対応します。
- テレワークの活用:免疫力が低下している時期の感染症リスク回避や、倦怠感がある日の移動負担軽減に極めて有効です。
- 傷病手当金と付加給付:経済的不安を解消するため、公的制度の周知徹底と、企業独自のプラスアルファの支援制度の構築が求められます。
4.Working RIBBONが牽引する女性のがん対策
がん対策を推進する上で欠かせないのが、女性特有のがんへの対策と、リーダー層による意思決定です。
Working RIBBONプロジェクトの意義
「Working RIBBON(W RIBBON)」は、がん対策推進企業アクション女性会議が中心となり、経営幹部やリーダー層が主体となって企業の女性のがん対策を牽引するプロジェクトです。女性特有のがん(乳がん、子宮頸がん等)は、働き盛り、かつキャリアの重要な時期に罹患リスクが高まるという特徴があります。
がん対策推進企業アクション女性会議「Working RIBBON」(厚生労働省・がん対策推進企業アクション事務局)
https://www.gankenshin50.mhlw.go.jp/workingribbon/
リーダーが主導する「制度」と「風土」の改革
W RIBBONの取り組みでは、リーダー層が率先してがん対策の重要性を発信することで、女性従業員が検診を受けやすい、あるいは罹患を公表しやすい風土を醸成します。
教育訓練給付制度とのシナジー
女性リーダー層が、キャリアのブランクを恐れる従業員に対し、教育訓練給付制度を活用したスキルアップを提案することは、復職後のキャリア停滞を防ぐ「攻めの支援」となります。特に専門実践教育訓練給付金を活用し、復職後に専門性の高い業務へシフトするモデルケースを作ることは、組織全体のダイバーシティ推進に寄与します。
5.キャリアの再構築を支える「攻めの安全網」
治療と仕事の両立を進める中で、どうしても直面するのが、これまでの業務が物理的・精神的に難しくなるという現実です。ここで、教育訓練給付制度が再チャレンジの武器となります。
教育訓練給付制度の概要
教育訓練給付制度とは、一定の条件を満たす雇用保険の被保険者が、厚生労働大臣の指定する講座を受講・修了した場合、支払った費用の一部がハローワークから支給される制度です。
- 一般教育訓練給付金:宅建、簿記、TOEIC、ITパスポートなど。受講費用の20%。
- 特定一般教育訓練給付金:介護初任者研修、税理士、大型免許など。受講費用の40~50%。
- 専門実践教育訓練給付金:看護師、調理師、デジタルスキル、MBAなど。受講費用の50~80%。
がん罹患後の「職務転換」とリスキリング
がんは、時に体力の低下や後遺症を伴います。例えば、重い荷物を持つ現場仕事や、長距離の運転、激しい接待を伴う営業職などは、治療中・治療後の身体には大きな負担となります。
しかし、その従業員が持つ業界の知識、顧客との人脈、社内調整力は、企業にとって依然として価値があります。ここで、教育訓練給付制度を活用したリスキリングを促します。
- 現場職から管理職へ:マネジメント講習やDX関連の講座を受講し、現場の知見を活かしたデジタル化推進役へと転換。
- 営業職からバックオフィスへ:簿記や社会保険労務士、ITスキルを習得し、専門性の高い事務職へと転換。
このように、制度を利用して、現在の身体状況に適した、新しい専門性を身につけることは、従業員にとっては雇用の継続を、企業にとっては貴重な人材の再配置を可能にします。
6.健康と人的資本経営の融合
「がん対策推進企業アクション」と教育訓練給付制度を連動させることで、企業は人的資本経営の理想形に近づくことができます。
健康経営優良法人認定への貢献
経済産業省が推進する「健康経営優良法人」の認定基準において、「がん対策」や「治療と仕事の両立支援」は非常に重要な評価項目です。また、従業員の教育機会の提供もまた、持続可能な組織づくりの観点から高く評価されます。
これらを統合して実施している企業は、投資家や金融機関から、リスク管理が徹底されており、成長性が高いと見なされるようになります。
心理的安全性の確保が生むイノベーション
従業員が「この会社は、自分が病気になっても見捨てない。それどころか、新しいスキルを身につけるチャンスまで提供してくれる」と確信できたとき、組織の心理的安全性が最大化されます。
失敗を恐れずに挑戦できる環境、そして万が一の際も守られるという安心感は、従業員の創造性を刺激し、結果として企業のイノベーションを促進します。
採用力の強化とブランド価値の向上
新卒・中途採用市場において、求職者は年収だけでなく、長く安心して働ける環境や成長機会の有無を鋭くチェックしています。がん対策に積極的で、かつ公的な給付金制度をフル活用してリスキリングを支援するという姿勢は、強力な採用ブランディングとなります。
7.企業が取り組むべき実践例
ステップ1:推進パートナーへの登録と現状把握
まずは「がん対策推進企業アクション」の公式サイトから推進パートナーに登録します(無料)。その上で、自社の健診結果からがん検診の受診率を把握し、課題を抽出します。
ステップ2:教育訓練給付制度の「社内広報」
教育訓練給付制度は、その手厚さの割に、制度を正しく理解している従業員は多くありません。「どのような講座が対象か」「いくら戻ってくるのか」を社内報やイントラネットで周知します。特に、がん罹患後のキャリア面談において、この制度を再チャレンジの武器として提示できる準備を整えます。
ステップ3:両立支援プランの策定
従業員ががんに罹患した際、どのようなプロセスで面談を行い、どのような勤務形態を提案するか、あらかじめガイドラインを作成しておきます。ここに、リスキリングのための学習時間確保や、給付制度の活用支援を明文化します。
ステップ4:管理職研修の実施
現場のマネージャーに対し、がんに関する正しい知識と、教育訓練給付制度の意義を教育します。「病人は休ませるもの」という旧来の固定観念を、「病気と共に、学びながら働く」という新しい価値観へとアップデートします。
8.人生100年時代の企業の責務
かつて、企業と従業員の関係は「労働力の提供と対価の支払い」というシンプルなものでした。しかし、人生100年時代、そして「がんサバイバー」が当たり前に職場にいる時代において、その関係性はより深く、多層的なものへと進化しています。
「がん対策推進企業アクション」と教育訓練給付制度の活用は、従業員の生存と成長を同時に担保する、次世代のセーフティネットです。病気になっても、従業員が安心して病と向き合い、同時に未来への希望を持って、常に新しいスキルを学び、社会に貢献し続けられる環境を整えることこそ、これからの不確実な時代において、企業が永続的に成長し続けるための唯一の道と言えます。

